投稿

9月, 2024の投稿を表示しています

源氏物語 第五十二帖 蜻蛉より 薫、女一の宮を垣間見る 其の一

イメージ
 蓮の花の盛りの頃、明石の中宮は法華八講を催されました。五日目の法会が終わって人々が片付けを済ませて人の少なくなった夕方。薫はどうしてもお会いしたい僧がいるので部屋を回って探します。すると、襖が少し開いているところを見つけたので、中を覗くと部屋の奥の方までが見渡せました。 【本文】 氷をものの蓋に置きて割るとて もて騒ぐ人びと 大人三人ばかり 童と居たり 唐衣も汗衫も着ず 皆うちとけたれば 御前とは見たまはぬに 白き薄物の御衣着替へたまへる人の 手に氷を持ちながらかく争ふを すこし笑みたまへる御顔 言はむ方なくうつくしげなり 【意訳】  氷を物の蓋の上に置いて割ろうとして、騒いでいる人々が、女房三人ほどと、童とがいました。唐衣も汗衫も着ず、みな打ち解けている様子なので、一の宮の御前とは見えませんでしたが、白い羅の御衣を着ていらっしゃる姫が、手に氷を持ちながら皆はしゃいでいるのを、少しほほ笑んで見ていらっしゃるお顔が、言いようもなく美しく見えます。 〈 其の二 〉

源氏物語 第五十一帖 浮舟より 匂宮、浮舟と宇治川へ 其の二

イメージ
 前にも触れたが、この頃は有職故実の知識も無ければ、本の読みも甘い、というか拾い読みだ。お気づきの方もいると思うが、「橘の小島」が「松の小島」になってしまった。言い訳だが、描き初めの頃、林原美術館所蔵の貝合わせを何点か模作した。下がその時の浮舟の貝合わせだが、橘の小島に向かう様子の絵だ。後方の松の枝に違和感はない。その下の絵が私の物だが、何か違いをつけようと、下手に構図をいじったら、明らかに前方の松の小島に到着しようとしている。ちょっと良く読めば気がつく事なので、気をつけたいと思う。 林原美術館所蔵の貝合わせの模作  この頃に描いていた五衣(実際には三色だが)は、赤、淡緑、水色の濃淡しか使って描いていない。季節、題材に関係なくだ。最近は余裕が出来たのでちょっと捻って、季節や題材にちなんだ「なんとか襲」とかで描く場合が多い。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  これを描いてからかなり経った頃、源氏物語を読んでいると、この後本文は、翌朝の女君の装束に触れている。「なつかしきほどなる白き限りを五つばかり(着馴らした白の五衣襲)」と書いてあった。該当するようなものに白を五枚重ねた梅染襲という襲の色目が有る。  貝覆いの絵は赤桃白のグラデーションで描いている。明らかに間違いであるが、開き直る余地もあるかも知れない。梅染襲は、緑の単衣に、表が白、裏が濃き蘇芳(赤紫色)の袿を五枚重ねたものだ。この時代のお洒落は何枚もの布を重ね、色が微妙に透けて見えるのも楽しんだ。白の五衣襲だが、裏地が濃き蘇芳だとしたら偶然にも近い色目だったかもしれない。かなり苦しいかな。

源氏物語 第五十一帖 浮舟より 匂宮、浮舟と宇治川へ 其の一

イメージ
 如月の十日頃、宮中で詩会が催されるが、雪が激しくなり早めに打ち切られ翌日に持ち越されました。そのとき薫が何気に宇治に因んだ歌を口ずさむのを匂宮が聞いてしまいます。匂宮は宇治に残した浮舟が気になり居ても立ってもいられません。翌日、歌を献上するのもうわの空で、苦しい口実を作り、浮舟に会いに深い雪の残る宇治へ向かいます。宇治に着いた匂宮は川の向こうの家へ浮舟を連れてゆく手配をします。 【本文】 いとはかなげなるものと 明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて さし渡りたまふほど 遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて つとつきて抱かれたるも いとらうたしと思す 有明の月澄み昇りて 水の面も曇りなきに これなむ 橘の小島 と申して 御舟しばしさしとどめたるを見たまへば 大きやかなる岩のさまして されたる常磐木の蔭茂れり 【意訳】  浮舟は、実に頼りないものと、日ごろ眺めていた頼りない小さな舟にお乗りになり、川をお渡りなさる間も、遥か遠い岸に向かって漕ぎ離れて行ってしまうような心細い気持ちがして、ひしっと寄り添い抱かれているのを、匂宮は、とてもいじらしいとお思いになられます。有明の月が澄み上って、川面も曇りなく見えているところに、「ここが、橘の小島でございます」と申して、お舟をしばらくお止めになりその先を御覧になると、大きな岩のような形をして、洒落た常磐木が茂っていました。  対岸まで小さな小舟で川を渡るなか、心細さに打ち震える浮舟と、それをいじらしいと抱き抱える匂宮を描いた。この舟にはあと二人、右近が遣わした供の者と船頭が乗っているが野暮なので省いた。 〈 其の二 〉

源氏物語 第五十帖 東屋より 薫、三条の小屋にて 其の二

イメージ
 ここも隆能源氏を参考にして描いた。構図等人物の配置は隆能源氏そのままで、左に伏しているのが浮舟、上にいるのが乳母、右が弁の尼と想定した。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  問題は建物。色々な註釈でこの三条の小家は「あやしき(粗末な)小家」と、扱われている場合が多い。額面どおりにそう思っていた。ただし、それは薫や浮舟の母君が、六条院や二条院と比べた感想であって、本文ではつくりかけではあるが「さればみたる(洒落た家)」とも書かれている。どうも、私が思っていた様な粗末な小屋ではなさそうだ。そこは、廂もあれば濡れ縁もある。立派な寝殿造りの建物なのだ。この絵を描いた時には、私にその寝殿造りのイメージが全く無かった。寝殿造りに人を配置して行くと、この小さな面積に納めるには多少省略が必要になる場合がある。それはそれで仕方ないのだが、せめて寝殿造りの構造を理解して頭に浮かべていたら、もう少しましなものになっていたかもしれない。  まず、一般的な寝殿造りでは廂の外側、濡れ縁との間に壁は存在しない。右端にわずかに見える板壁はありえないだろう。妻戸は隆能源氏にも描かれている。場所が気になるが多分問題は無いと思う。その左、最初と同じ理由で、ここも鎧張り風の板壁はありえない。黒の蔀はあったかもしれないが、女性の隠れ家と想定すると、白木の方がしっくりとしたかもしれない。  そもそも平安時代の住居について、あまり良くわかっていない。遺構は京都の地下に眠っているし、書物、絵画が手掛かりになるのだろうが、これだと言える物が思いつかない。源氏物語が書かれてから百年ほど経って絵巻が描かれたが、それこそ隆能源氏が最重要の資料なのだ。隆能源氏の「東屋」には母屋と廂の間がはっきりと分かれて描かれているが、粗末な家には廂の間はいらないんじゃないかと取ってしまった。なまじ浅はかな知識を持つとろくな事はない。隆能源氏に見える、薫の訪問を取り次ぐ様子はなくなってしまった。でも、薫の突然の訪問に慌てて相談する様子は、なんとか描いた。これがなきゃなんの話の絵かわからなくなってしまう。  隆能源氏は広大な寝殿造りの建物をコンパクトに切り取って、実に巧みに描かれている。つくづく源氏物語の書かれた時代の世の中を見てみたいと思う。

源氏物語 第五十帖 東屋より 薫、三条の小屋にて 其の一

イメージ
 中将の君は、婚約を破棄された娘の浮舟を不憫に思い、二条院の中の君に預けることにしました。しかし、そこで匂宮の目に留まってしまいます。そのことを知って安心出来なくなった中将の君は浮舟を三条の隠れ家へと移しました。  薫は宇治に訪れたときに中の君から聞いていた、亡くなった大君によく似ているという浮舟のことを弁の尼に尋ねて仲介を頼みます。弁の尼は、薫が用意した車で京に出て三条の隠れ家を訪れます。そして、宵を過ぎた頃に雨が降る中を、薫が三条の隠れ家を訪ねて取り次ぎを願います。 【本文】 雨やや降りくれば、空はいと暗し 宿直人のあやしき声したる 夜行うちして 家の辰巳の隅の崩れ いと危ふし この人の御車入るべくは引き入れて御門鎖してよ かかる人の御供人こそ 心はうたてあれ など言ひあへるも むくむくしく聞きならはぬ心地したまふ 佐野のわたりに家もあらなくに など口ずさびて 里びたる簀子の端つ方にゐたまへり   さしとむる 葎や繁き 東屋の あまりほどふる 雨そそきかな とうち払ひたまへる追風 いとかたはなるまで 東国の里人も驚きぬべし 【意訳】  雨が次第に降って来ましたので、空はたいそう暗くなりました。宿直人で変な声をした者が、夜回りをして、「屋敷の東南の隅の崩れが、とても無用心だ。こちらの客人の御車は入れるなら引き入れてご門を閉められよ。この客人のお供の物は、気がきかない」などと言い合っているのも、薄気味悪く聞き馴れない心地がいたします。「佐野のわたりに家もあらなくに」なとど口ずさんで、簡素な簀子の端の方に座っていらっしゃいます。  戸口を閉ざしているのは、葎(むぐら)が繁っているのせいなのか。東屋に、落ちる雨だれの下で、あまりにも長く待たされることよ。 と、雫をお払いになりますと、薫の香りが風にのって、周囲に芳しく漂い、東国の田舎人も驚いたに違いない。  この後薫は隠れ家の南の廂の間に招き入れられ、浮舟と夜明けまで過ごします。 〈 其の二 〉

源氏物語 第四十九帖 宿木より 匂宮、琵琶を弾く 其の二

イメージ
 この絵も隆能源氏を参考にした。宇治十帖を選んだのにはまだ理由がある。主な舞台は宇治の山荘だ。主人の性格上、建物は質素な造りで高欄などは少ないはずだ。今でこそ、それほど苦とは思わないが、描き始めた頃、高欄は高いハードルだった。高欄だけならまだましだが、高欄付きの簀縁に人がいた場合、簀縁を描いてから人物を描く。その上に高欄の地色の具の黄土を塗って具墨で線を細く描き起こす。文章で書くとなんという事は無いが実際にやってみると思うように行かない。あの頃の私の技術では、具にした黄土はコテコテに盛り上がり、線描は途切れ途切れでガタガタになる。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  この絵も隆能源氏を参考にした。宇治十帖を選んだのにはまだ理由がある。主な舞台は宇治の山荘だ。主人の性格上、建物は質素な造りで高欄などは少ないはずだ。今でこそ、それほど苦とは思わないが、描き始めた頃、高欄は高いハードルだった。高欄だけならまだましだが、高欄付きの簀縁に人がいた場合、簀縁を描いてから人物を描く。その上に高欄の地色の具の黄土を塗って具墨で線を細く描き起こす。文章で書くとなんという事は無いが実際にやってみると思うように行かない。あの頃の私の技術では、具にした黄土はコテコテに盛り上がり、線描は途切れ途切れでガタガタになる。  隆能源氏には高欄がついている。ここにきれいな高欄を描ける自信が無かったし、下手なものを描くと全てがぶち壊しになりそうだった。場所は紫の上ゆかりの二条院、チャチな造りなどはあろうはずも無いが、二条院でも高欄の無い所もあるんじゃ無いかなと、見てきた人もいないし。  高欄はこのあと手習の建物で初挑戦だ!

源氏物語 第四十九帖 宿木より 匂宮、琵琶を弾く 其の一

イメージ
 宇治を訪れていた薫は、帰宅の途中に深山木に寄生している紅葉した葛を中の君のために取って戻ります。葛に文を添えて中の君へ送りますが、匂宮がいるときに届いてしまいます。匂宮は中の君に返事を書くように勧めてはいますが、自分に浮気な心が有るので薫との仲を疑っています。中の君はやましいところがないので面白くはありません。 【本文】 なつかしきほどの御衣どもに 直衣ばかり着たまひて 琵琶を弾きゐたまへり 黄鐘調の掻き合はせを いとあはれに弾きなしたまへば 女君も心に入りたまへることにて もの怨じもえし果てたまはず 小さき御几帳のつまより 脇息に寄りかかりて ほのかにさし出でたまへる いと見まほしくらうたげなり 【意訳】  着なれた御衣に、直衣だけをお召しになり、琵琶を弾いていらっしゃいました。黄鐘調の掻き合わせを、たいそう美しくお弾きになるので、女君もたしなんでいらっしゃるものですから、物恨みもなさらずに、小さい御几帳の端から、脇息に寄り掛かって、わずかにお出しになった顔は、まことにいつまでも見ていたいほど可愛らしいご様子です。 〈 其の二 〉

源氏物語 第四十八帖 早蕨より 中の君、蕨を贈られる 其の二

イメージ
  姉の大君が亡くなり悲しみの中で暮らす中の君の所へ、山の阿闍梨より新年の挨拶と共に山菜が送られてきた。添えられた一生懸命に詠まれた歌に、心惹かれ感涙しているところを描いた。文を読んでいるのが中の君。他の二人はお付きの女房。「御前に詠み申さしめたまへ」とあるので、今だったら、女房が文を読み、中の君が袖を頬に当て感涙しているところを描くだろう。「をかしき籠」も、当時いろいろ資料を探して私なりに描いたつもりだが、かなり怪しいものになっている。初音にも籠が登場する。明石の君が娘に贈ったもので、洗練された美しい籠に違いない。ここでは山の阿闍梨から贈られた山菜を収めた籠なので、素朴で飾り気のない籠を描いた。高速道路のパーキングで、真空パックの山菜を詰めて売っているカゴにこんなのがあったような。 同じ構図で別の貝覆い貝  貝合わせ使う貝には図案に一定のお決まりがあった。その中でも、制作するにあたり最初のハードルは源氏雲だった。源氏雲とは、金箔で雲を表現したもので、多くの場合、金箔の雲の中に点や亀甲柄の盛り上がった模様が描かれている。もちろん無地の金箔地に花鳥など描かれたものはあるが、そちらの方が珍しくほとんどの貝合わせには、なんらかの形で源氏雲が描かれている。貝に源氏絵を描くには避けては通れない必須アイテムだろう。  盛り上げを行うには、貝殻を砕いてすりつぶした胡粉という絵の具を使う。ただし、そのままでは点や線の真ん中が窪んでしまい、クリッと盛り上がらない。それを回避するため、狩野派には技法が残っていて、盛り上げをするのに起上胡粉という一度腐らせた胡粉を使う。ただし、名の通り胡粉を腐らせなければいけない。今すぐ描きたいのにそんな悠長なことはしていられない。この宇治十帖の源氏雲は水分をなるべく減らした花胡粉を使って描いた。その為に盛り上げた胡粉は、クリッと丸く盛り上がらず、ダラッと平面的で中心が窪んでしまっている。  起上胡粉については後で詳しく書こうと思う。

源氏物語 第四十八帖 早蕨より 中の君、蕨を贈られる 其の一

イメージ
 宇治の山里にも春の日差しは区別なく差し込みます。中の君は、すべてに共に生きてきた大君が亡くなり、父宮が亡くなった時よりも強く悲く鬱々とした日々を過ごしています。 【本文】 阿闍梨のもとより 年改まりては 何ごとかおはしますらむ 御祈りは たゆみなく仕うまつりはべり 今は 一所の御ことをなむ 安からず念じきこえさする など聞こえて 蕨つくづくしをかしき籠に入れて これは 童べの供養じてはべる初穂なり とて たてまつれり 手は いと悪しうて 歌は わざとがましくひき放ちてぞ書きたる   君にとてあまたの春を摘みしかば 常を忘れぬ初蕨なり 御前に詠み申さしめたまへ とあり 【意訳】  山の阿闍梨の所から「年が改まりましてからは、いかがお過ごしでしょうか。ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。今は、あなた様の事を、ご無事にとお祈りいたしております」などとしたため上げて、蕨や土筆を風流な籠に入れて、「これは、童たちが供養してくれましたお初穂でございます」と、献上されました。とても悪筆で、歌は、わざとらしく放ち書きで書かれています。 「姫君にと思い恒例の春に摘みましたので、今年も例年どおりの初蕨でございます。御前でお詠み申し上げてください」とあります。 〈 其の二 〉

源氏物語 第四十七帖 総角より 薫、紅葉を葺いた舟で遊ぶ 其の二

イメージ
 宇治の山荘から見える船遊びの様子を少し俯瞰させて描いてみた。椎本でもそうだったが、この時代にどんな舟があったか調べて見たがよくわからなかった。宇治十帖の衣装については、、正直にいい加減だ。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  貝覆いで使われる貝、俗に言う貝合わせの貝一組には同じ絵が描かれている。そもそも貝覆いの遊戯は、一つの貝の外側の模様を見て、たくさんの貝の中から同じ模様を見つけ出し、その数を競う遊びである。そのため内側に絵の描かれている必要がないという。「なぐさみにゑがくなり」と二見の浦(伊勢貞丈1773)には記されている。  しかし、たくさんの貝を整理していると、本来なら他の貝とは絶対に合わないはずの蛤が、違う貝と仲良く合わさってしまう時がある。あってはならないことだがどんな所でも間違いは起こる。しかもけっこう多い。二枚の貝に同じ絵の描いてあるのは単なる装飾という説もあるが、やはり本当に相方同志なのか視覚的に簡単確実に確認できる方法なのだと思う。

源氏物語 第四十七帖 総角より 薫、紅葉を葺いた舟で遊ぶ 其の一

イメージ
 匂宮は中の君と思いを遂げたが、その身分ゆえ自由な行動は取りづらく、なかなか宇治には行けないでいた。十月上旬頃。薫は、網代も面白い時期だろうと匂宮を誘って、宇治への紅葉狩りを計画する。途中で宇治の山荘へ中宿りすることを決め、姫君たちに匂宮が立ち寄る事を伝えます。姫君達は屋敷を整え匂宮を待ちました。 【本文】 舟にて上り下り おもしろく遊びたまふも聞こゆ ほのぼのありさま見ゆるを そなたに立ち出でて 若き人びと見たてまつる 正身の御ありさまは それと見わかねども 紅葉を葺きたる舟の飾りの 錦と見ゆるに 声々吹き出づる物の音ども 風につけておどろおどろしきまでおぼゆ 【意訳】  舟で上ったり下ったりして、賑やかに合奏なさっているのが聞こえます。ちらちらとその様子が見えるのを、そちらの方へ出て、若い女房たちは見物なさいます。ご本人のお姿は、その人と見分けることはできませんが、紅葉を葺いた舟の飾りが、錦の様に見え、様々に吹き出した笛の音が、風に乗って騒々しくらいに聞こえます。  しかしこの日も匂宮のもとへ宮中から大勢の人が訪れ、宇治の山荘へ訪れることはかないませんでした。 〈 其の二 〉

源氏物語 第四十六帖 椎本より 薫、八の宮邸を訪れる 其の二

イメージ
  この頃の作品をいま素直に見て感じるのは、お世辞にもあまり上手じゃない。しかし、これを描いた頃は多分これで精一杯だった。わずかだが下手なりに懸命さも感じる。たぶん。最初の頃なんて皆んなそんなものだろう。どうしようも無いのは、なんとも無謀な絵の内容だ。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  隆能源氏から構図を参考にすることは前回書いた。それはあくまでも止むを得ない話であって、本心は、全て自分の構図、自分の絵で描きたいと思っていた。それには有職故実の知識が無く、本の読みが足りなかった。まず、舟はこれでよかったのか? 竿を持ってるのは誰だ、貴族なのか船頭なのか? 楽器を演奏しながらなのだが、だれも楽器を手にしていない。唯一の楽器は屋外で琴、しかも七弦の琴。本文にもあるが、ここで奏でるのはよく音の通る管楽器だろう。弦楽器は山荘に到着してからだ。  いま見直すと色々見たく無いものが見えて来る。ここの場面は、色々な資料の中から作者不詳の扇面画を参考に描いたと思う。今思うとなんとバカなことをしたものかと思う。  あと一つ、ここで描きたくても描けなかったのは、満開の桜だ。本文には「散る桜あれば今開けそむる」とある。「桜咲くさくらの山の桜花散る桜あれば咲く桜あり」この歌からの引用とのことだが、そんな桜が咲く中での舟遊び、このゴージャスな感じが全くしない。これを描いた時は色々未熟で仕方ないと思う。しかし、自分なりに上手くなりたいと思いずっと描いてきた。最近少し上手にはなってきたが、今でも思うような絵はなかなか描けないものだと思う。  じゃあ、どんな絵が描きたいかというと、そぉっと貝を開いて中を覗く。すると、芝居の浅葱幕が柝の音と共にパーンと振り落とされ、パァッと明るくなったら満開の桜が咲いている。その瞬間、ほわっと暖かくなったような気がする。貝を開いて見た時に、そんな感じのする絵が描けたらいいなと思って描いている。無理かもしれないが、毎回挑戦してる、つもり、だ、が。

源氏物語 第四十六帖 椎本より 薫、八の宮邸を訪れる 其の一

イメージ
  如月の二十日頃。匂宮は初瀬詣の帰途に夕霧の宇治の別荘へ中宿りに立ち寄られました。薫に歓待され賑やかに管弦を催し遊びます。その笛の音は、対岸の八の宮の山荘まで聞こえました。薫はかねがね八の宮の山荘へ伺いたいと思っていました。そこへ八の宮より文が届きます。薫は桜の花が咲き乱れる中、管弦の上手な公達を誘って舟の上で酣酔楽を演奏しながら八の宮の山荘へ向かいました。 【本文】 中将は参うでたまふ 遊びに心入れたる君たち誘ひて さしやりたまふほど 酣酔楽遊びて 水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど さる方にいとをかしう ゆゑある宮なれば 人びと心して舟よりおりたまふ 【意訳】  中将の薫は対岸へお伺いになさります。遊びに夢中になっている公達を誘って、棹さしてお渡りになる間は、酣酔楽を合奏なさいまして、水に臨んだ廊に造りつけてある階段の意匠などは、その方面ではたいそう凝った趣向の、由緒のある宮邸なので、人びとは心して舟からお下りになります。 〈其の二〉

源氏物語 第四十五帖 橋姫より 薫、姉妹を垣間見る 其の二

イメージ
 この場面を、隆能源氏を参考に描いた。しかし、古典絵画が絶対ではない。有名な話だが隆能源氏にも本文と食い違う絵が描かれている場面がある。剥落しているのでわかりづらいが、垣間見をする薫が冠直衣姿で描かれてる。しかし、本文ではこの後に老女房とのやりとりがあり、薫の装束が「やつしたまへると見ゆる狩衣姿」と書かれている。後世の加筆と言われているが、何も知らなければこのまま直衣姿で描いてしまうかもしれない。古典絵画でも注意は必要だ。 片側の貝に描かれた同じ構図の絵  実は、冠直衣姿で描くことはまぬがれ、いい気になっていた訳ではないが他にやってしまった箇所がある。何を思ったか隆能源氏を無視して簾を御簾にしてしまった。無責任なようだが、自分でもよくわからない。本文もしっかり簾と書いてある。たぶん、宮邸だから「すだれ」は無いかなと勘違いをしてしまったか、全く何も考えず柱の間に下がってるのは御簾だろうと思ったか。他にも私がこの宇治十帖を描いた十点にはとんでもない間違いがたくさん潜んでいる。公開している責任上、単純に知識が無かったでは済まされない。ネットの情報なんて嘘ばっかだよ、の、代表例になりかねない。明らかに間違っている内容の絵を、なんの説明もなくwebにのせるのは、やってはいけないことだと思っている。そこで今の私にわかる間違いは正直に申告、訂正したいと思っている。  ただし、絵を作って行くのに絵面を優先した嘘もある。それは了承願いたい。千年以上前に書かれたフィクションを、まるで見て来た様に本文に忠実にしかも美しく可視化したいという、極めてだいそれた試みを模索中なのだ。

源氏物語 第四十五帖 橋姫より 薫、姉妹を垣間見る 其の一

イメージ
  2005年頃の製作。源氏絵を描いた最初の頃の作品。画題は宇治十帖から一帖一場面を選んで、とにかく描いて見ようと思って描いた。稚拙なものだが、自分の反省を含め紹介したい。  宇治十帖を選んだのにはそれなりの理由があった。源氏絵を描く場合ある程度の古典の素養と有職故実の知識が無いとひどい目にあう。姫君一人登場すれば本文に何も書いてなくても、地位と年令に見合った装束が必要になる。また、季節や状況、さらに姫君の性格によっても様々に変わってくる。その情景をパズルを解くように組み立てて描いてゆくのは楽しい作業になると思うが、これを描き始めた頃にそんな知識も余裕も無かった。装束に夏冬の区別があるくらいの知識しか無い。そこで古典絵画をお手本にしようと思いつく。源氏物語を辞書いらずで読んでいた時代、日常生活で装束を着用していた時代の絵画なら考証などいらない、そのまま参考になるはずだ。  有名な隆能源氏(国宝源氏物語絵巻)は平安末期に制作された。紫式部が源氏物語を描いてから約百年後になるが、源氏物語を扱った最古の絵と写本になる。まだ装束が日常だったはずだ。幸いにも隆能源氏には宇治十帖が何点か残されている。十分参考になると、あまり迷うことなく宇治十帖の制作に取り掛かった。  秋の末、八の宮は四季ごとの念仏を行うので、阿闍梨の住むお堂で七日間のお勤めの為に宇治の山荘を留守にします。それを知らない薫は八の宮に会うため、久しぶりに宇治を訪ねました。山荘に近づくと美しい琵琶と箏の音が聞こえて来ます。しばらく隠れて聞いていましたが、宿直人が出て来て、八の宮の不在を告げます。薫は琵琶と箏の調べが気になり、宿直人に音がよく聴けるところに案内を願います。 【本文】 あなたに通ふべかめる透垣の戸を すこし押し開けて見たまへば 月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて 簾を短く巻き上げて人びとゐたり・・・内なる人一人 柱に少しゐ隠れて琵琶を前に置きて 撥を手まさぐりにしつつゐたるに 雲隠れたりつる月の にはかにいと明くさし出でたれば 扇ならで これしても 月は招きつべかりけり とて さしのぞきたる顔 いみじくらうたげに匂ひやかなるべし 添ひ臥したる人は 琴の上に傾きかかりて 入る日を返す撥こそありけれ さま異にも思ひ及びたまふ御心かな とて うち笑ひたるけはひ 今少し重りかによしづきたり 【意訳】  姉妹の

小さな筆架

イメージ
  私の使っている筆はすこぶる小さい。絵を描くとき、簡単な隈などは片方を口にくわえて作業している。しかし、何本か持ち替える時はそうもいかない。また、最近になって人に教える機会ができた。その時に筆を口にくわえるのは見た目も悪いし、このご時勢には衛生的でない。気をつけるようにはしているが、習慣とは恐ろしいもので気がついたら筆をくわえている。嬉しそうに筆をくわえる姿はまるで犬だ。少なくとも、生徒さんにはそのように見えているだろう。  かねてから筆架を使うようにはしていたが、なかなか習慣になっていない。でも取りあえずは持ってはいる。訳あって制作の環境が少し変わることになった。机のまわりを整理して、なるべく筆架を使うよう習慣づけてみようと思うこの頃だ。  筆架として使っているのは片目貫と呼ばれている物だ。もともとは刀の拵えの柄(手で握る所)の装飾金具、二つで一組の目貫として作られたが、片方が紛失し、煙草入れの金具として再利用されていた物だ。昔は二、三千円で手に入ったが、最近はちょっと良いものだと結構な値段だ。  両方とも赤銅製。左は獅子が二匹遊ぶ姿、右は蛤三個。典型的な後藤家の図柄だ。幅が38m m位。表面に二個所の窪みがあるので筆架に見立てた。場所を取らず使いやすい。行き詰まったらぼんやり眺めている。昔はこんな仕事を当たり前にやっていたんだと思うとつくづく感心する。

源氏物語 第三十一帖 真木柱より 姫君、柱の割れ目に歌を残す 其の二

イメージ
 冬の夕暮れ、中央、柱の割れ目に、檜皮色重(表蘇芳)の紙を、笄で差し込んでいるのが真木柱の姫君。この時まだ十二、三歳なので衣装は、松襲(表着は蘇芳、五衣に萌葱匂、単に紅)の細長を想定した。(襲色目については同じ呼び方でも参考にした資料によって色の配置が色々と違うことをご了承願いたい。)姫君の赤い細長には、とっておきの昔の天然辰砂を使った。絵具の解き方も特別で、膠で解いた絵具を揺すると赤い絵具に僅かなグラデーションができる。そこから好みの赤を筆に掬い取って描いた。高貴な女性に蘇芳の色を使う時はほぼ辰砂を使っている。  右上、袖で涙を拭うのが髭黒の北の方(正妻)。実はこの時に本文では北の方は「いでや」と姫君の行いを否定している。気丈な性格で、悲しさを越え怒りさえ感じる言動だが、ここで一人怒ってもらっていてもどう描いて良いかわからないので袖で目を拭っていただいた。衣装は雪の下襲の小袿姿。雪の下襲は紅梅に雪が降り積り、じっと耐える姿だとか。  その下の女房は中将のお許。衣装は薄桜重の唐衣、萌葱匂襲の五衣。左の女房は木工の君。衣装は紅梅匂重ね唐衣。木工の君は髭黒大将付きの女房なので、真木柱達とはこの後に別れることになる。見送るように、一人向きを変えた。  本文では衣装について何も説明がない。季節、状況、人の性格に配色等、色々考慮し私が見繕った。真木の柱とは、檜や杉などでできた太い丸柱をいう。この場面では真木柱がいつ戻るかもしれない父親を待つという事にこだわった。本文には無いが、庭には「待つ」を暗示させる松の木を大きく描いた。真木柱の松襲もそれに由来する。

源氏物語 第三十一帖 真木柱より 姫君、柱の割れ目に歌を残す 其の一

イメージ
 まず最初に、何から見て頂こうか色々考えた。少し前、2020年頃の作品。内容は悲しい話だが、文学でも演劇でも王道は悲劇だと思っている。他の女性にうつつを抜かして家に戻らない父親を、これが最後と待つ娘を描いた。  髭黒の大将が玉鬘を迎えたために、北の方とはいざこざが絶えなくなります。そのことは北の方の父の式部卿宮の耳にも入り、立腹して北の方と姫君を引き取りに髭黒の屋敷に息子たちを向かわせました。 【本文】 日も暮れ 雪降りぬべき空のけしきも 心細う見ゆる夕べなり いたう荒れはべりなむ 早う と 御迎への君達そそのかしきこえて 御目おし拭ひつつ眺めおはす 姫君は殿いとかなしうしたてまつりたまふならひに 見たてまつらではいかでかあらむ 今なども聞こえで また会ひ見ぬやうもこそあれ と思ほすにうつぶし伏してえ渡るまじと思ほしたるを かく思したるなむ いと心憂き などこしらへきこえたまふ ただ今も 渡りたまはなむ と待ちきこえたまへど かく暮れなむに まさに動きたまひなむや 常に寄りゐたまふ東面の柱を人に譲る心地したまふもあはれにて 姫君 檜皮色の紙の重ねただいささかに書きて 柱の干割れたるはさまに笄の先して押し入れたまふ   今はとて 宿かれぬとも 馴れ来つる 真木の柱は われを忘るな えも書きやらで泣きたまふ 【意訳】  日も暮れて、雪が降って来そうな空の景色も、心細く見える夕方でした。「ひどく荒れて来そうですよ。お早く」と、お迎えの公達はご催促申し上げるが、お目を拭いながら虚ろでいらっしゃいます。姫君はたいそう父君に可愛いがられていたので、お目にかからないではどうして立ち去れようか。二度と会えないことになるかもしれないとお思いになりますと、「このまま去ることは出来ない」とうつ伏せになったままお考えでいるのを「そのような思いでいらっしゃるとは、とても情けない」などとおなだめなさります。今すぐにも、お父様がお帰りになるのではとお待ち申し上げなされますが、このように日が暮れてきましては、とてもお戻りにはなりません。  姫君は、いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を知らぬ人に取られてしまうのも悲しくて、檜皮色の紙を重ねたのにほんのすこししたためて、干割れた柱の隙間に笄の先でお差し込みなされます。 「今はもう、この家を離れて行きますが、馴れ親しんできた真木の柱は、わたしを忘れな

はじめに

イメージ
 貝合わせを作り始めてから20年以上になる。もう、いつ何かあってもおかしくない年になってしまった。  Web site で、蛤に花鳥や源氏絵などを描いた画像だけは公開していた。しかし、絵にはなんの説明もしていない。源氏絵なんて一つ見れば後はどれも一緒、と思われている方がいらっしゃるのも事実で、絵に簡単な説明を付けて公開できないかと思っていた。  そこで、今まで製作してきた貝合わせをここいらで一度整理したいと思っていたが、資料は散乱してなかなか収拾がつかない。そこで、とりあえず書きやすい物や、資料の揃った物からこのblogにかたっぱしらから書いてゆき、後で整理することにした。内容に間違いや不適切なものがあれば、修正もできるようだ。誰かに見てもらいたいという思いもあるが、まずは自分の記録が目的のため、思いつくまま書いてゆこうと思う。  最初にお断りしたいのは、所々出て来る「貝覆い貝」とは私の造語だということ。「貝合わせ」や「貝覆い」と言う言葉は、遊戯と遊具、両方同じ名前で呼ばれる。この遊びをするには一組360対の絵の描いた蛤が必要になる。遊ぶことが目的なので、絵も美しく描かれてはいるが、(例外もあるが)ほとんどの場合は画一的である。貝殻一対にそんなに手間を掛けられない。しかし、今ではこの遊戯をすることはほぼ無くなった。だったら、蛤一対に、見た事も無いような精緻で美しい絵を、綺麗な絵の具で描いて見たらどうだろう、と思った。そこで、私が、それを目標に描いた貝合わせを「貝覆い貝」と呼ぼうと決めた。「見た事も無いような精緻で美しい絵」は、いまだほど遠いが、目標が無ければ前には進めない。制作は続く。  2024 甲辰 長月吉日